第10章 仮面の女
 廊下を歩くAはSの部屋を通り過ぎ、Mの部屋の前に立った。
 扉を軽く叩く。
 思いの外早く扉が開き、蒼いベールのMが顔を覗かせた。
「どうぞ、早く中へお入りなさい」
 その言葉にAは躊躇せずにはいられなかった。前回の訪問時、おそらくMは何らかの工作をして、Aはマダム・ヴィーへ引き渡される結果となった。信用ならぬ相手の部屋に容易に入ることは愚の骨頂。
 しかし、進まねばらない。
 部屋に入ったAは前と同じ席に通された。そして、またもや出された紅茶。さすがにAは手をつけなかった。
「また僕に薬を飲ませる気ですか?」棘のある強い口調でAはMを攻めた。
「いいえ、今日は何も」その言葉は薬を入れたことを認めることだった。「部屋に入る時に誰にも見られておりませんから」
 Aは少し眼を丸くした。「前は誰かに見られていたというのですか?」
「ええ」とMは短く。
 やはり見張られているのだとAは確信した。軽率な行動は慎むべきだが、すでに遅いかもしれない。
 Aは少し迷いながらティーカップの持ち手を掴んだ。そのまま動きを止める。
 その姿を見たMは、「わたくしをあまり信用なさいませんように」
 相手の心を揺さぶるような言葉。何を信じるべきか、その決断を揺るがすものだ。
 深く呼吸をしてAはマスクの奥の瞳でMを強く見据えた。
「貴女は誰の味方なのですか?」
「誰の味方でもありませんわ。ただ誰の敵でもないだけ」
「しかし、僕に薬を飲ませマダム・ヴィーに引き渡したのは貴女でしょう?」
「それがわたくしのためであり、貴方のためであり、マダム・ヴィーのためであったからですのよ」
 この屋敷の中で、目的がようと知れる者は誰一人とていない。誰の行動も不可解であり、謎を孕んでいる。彼らの台詞はまるで謎かけのようだ。
 Aは懐からあの鍵を取り出して見せた。
「これがなんだかわかりますか?」
 Mが答えるまでには少しの間があった。
「どこでその鍵を?」
 その物言いはどこの鍵であるか知っている。
「Jから譲り受けました」
 その名前を出すことは賭であった。もしもMがJへ鍵を渡した本人でない場合や、敵であった場合は、その名前を出すことによってJの立場を危うくする。さらにJだけではなく、Aにまで波紋が及ぶ可能性は大いにある。
「もうお使いになりましたか?」
「地下でマダム・ヴィーが少年を痛めつけている無残な光景を見ました」
「ほかには何か?」
 探るように訊いてくるM。
 正直にAは答えた。「なにも」
「そうですか……ならその鍵はわたくしがお預かりしますわ」
「なぜ? これは貴女の物なのですか、貴女がJに渡した物なのですか?」
「ええ、訳あってわたくしがJに託しましたが、貴方には必要のない物」
 言葉だけでは本当にMがJに鍵を渡したのかわからない。
 Aは鍵を懐にしまった。
「残念ながら僕は貴女を信用できない。鍵を欲しいのならJを通してください」
 それ以上Mは無理強いなどをすることはなかった。
 鍵はしまわれたが、まだ鍵の疑問が全て解決されたわけではなく、Mから訊けることはまだありそうだ。
「もしも本当に貴女がJに鍵を渡したのなら、その理由はなんですか?」
「それはJにお聞きくださいませ」
「では地下には僕がまだ見ぬ何があるというのですか?」
「……深入りする前に早く屋敷から逃げた方が良いでしょう」
「前も貴女は逃げろと言いつつ、僕に薬を飲ませたではありませんか」
「逃げることを忠告することと、わたくしがマダム・ヴィーの敵ではないと言うことは別の話ですわよ。貴方に一刻も早く屋敷から逃げて欲しいと思っているのは本心」
 言葉と行動、どちらを信じるべきだろうか。
 しかし、AはなぜかMが敵であると思えなかった。なぜだろう、Mの醸し出す物静かで、穏やかな雰囲気がそう思わせるのか。
 今まで成された会話は、もしもMが敵であった場合、Aの立場を危うくするものだろう。
 そして、ここまで話を進めた以上は引き返すことも出来ない。
「そんなに逃げろと言うのなら、その方法を教えてくれませんか?」
「それは……わかりません」
「無責任な。方法もなく行動をすれば、危険に身を投げるのと同じではありませんか」
「けれど、この屋敷にいれば大きな災いに見舞われるかも知れませんわ」
「いったい何が起こるというのですか!」
 声を張り上げたAの脳裏に浮かんだのはマダム・ヴィーの狂気。
 地下で行われていることをAは見た。
 だが、マダム・ヴィーがAに何をした?
 可能性を除けば、マダム・ヴィーがAにしたことは、客人への持て成し。良い部屋を与えられ、服や食事の面倒まで看てくれている。事故に遭ったAを助けたことにもなっている。そこに可笑しい決め事を強いている。
 一見してAは良い待遇を受けているが、それでもなぜか付き纏う不安。
 もしかしたら、屋敷を出たいと申し出ればすんなりと事が運ぶかも知れない。そんな期待を裏切るのは、Gの死、Jの行動、Mの言葉。
 しかし、マダム・ヴィーに直接なにかをされた覚えがAにはない。
 何もかも妄想に駆られているだけではないか。もしくは全てはただの悪い夢。
 急にAを目眩が襲った。
「また……薬……いつの間に!」
 椅子から転げ落ちながらAはティーカップを倒した。
 慌ててMはAを抱きかかえる。
「大丈夫っ!?」
 躰が揺さぶられる。
 Aの視界に映る蒼い残像。
「しっかりなさい。わたくしは何もしておりませんわ!」
「嘘だ……」
「嘘では……せんわ……おそらく……マダム・ヴィーが……」
 すでにMの声は途切れ途切れでしか聞こえなかった。
 Aは遠のく意識に逆らいながら、手を伸ばしMのベールを剥ぎ取った。
 ぼやけていた視界が一瞬だけ晴れた。
 女の顔。
 哀しい眼をする女の顔。
 そこにあったのは――悪夢に出てきたあの女の顔だった。

 視界を覆う闇は、呼吸すらも蝕んだ。
 眼を見開いたAが見たものは自分の上に馬乗りになるSの姿。Sが両手でAの首を絞めている。驚きつつもAは逃げようとするも、躰は縄で拘束されてベッドに縛り付けられていた。
 じわじわとSの手に力がこもる。少しずつ締め上げられていく首。Aの口から漏れる声にならない濁音。
 急にSの手からふっと力が抜けた。途端にAは激しく咳き込んだ。それを見下しながら嗤うSの唇。
「きゃはははは!」
「……げほっ……うう……どうして……」
 声は嗄れ、混乱するAの頭。
 またMに謀られたのか?
 Sはベッドの上に立ち、網タイツを穿いたつま先をAの腹からシャツの中へ忍ばせた。そして、蹴り上げるようにして、シャツのボタンを飛ばし、Aの素肌を露わにさせた。
「貧弱そうな躰ね!」そう言いながらSは激しくAの胸板を踏みつけた。
「ウゲッ!」
 呼吸が一瞬止まり、悶えたくなるほどの痛みが奔るが、躰は拘束されて動かない。
 Aは咳き込みながらSを睨み付けた。
「どうして……こんなことを!」
「どうして? 楽しいからに決まってるじゃない!」Sはつま先で絵を描くようにAの胸に這わせ、さらに下腹部でなぞるように動かした。「ほら、もっと声を出していいのよ!」捻じ込むようにSの足がAの股間を圧迫した。
「クッ……僕が貴女に何をした!」
「きゃはははっ、この屋敷から逃げようなんて思わないことね!」
「逃げる……僕はそんなこと……」
「ヴィーが何を考えてるか知らないけど、アタシがアンタを醜い奴隷にしてやるよ!」
 Aは逃げようと手を動かすが、縄が手首を余計に締め付けるだけだ。
「なんで僕がお前の奴隷なんかに!」
「気に食わないからに決まってんだろ。アンタの目的なんて疾うにお見通しなんだよ!」
「目的?」
「惚けてんじゃないよ!」
 まったく惚けているつもりはなかったが、Aは鎌を掛けるために相手を挑発することにした。
「お見通しなら言ってみろ!」
「Gと同じでこそこそ調べてんだろ、この屋敷のことを!」
「Gと同じ?」
 その言葉は呑み込むべきであったが、思わず出てしまった。これ以上鎌を掛けられなくなる。
 一瞬動きを止めたSだったが、急に笑い出した。「きゃははは、やっぱりアンタもGと同じで記憶を消されてるようだね。だからって目障りなことには変わりないよ。奴隷になるか死ぬかどっちか選びな!」
「どっちも嫌だ!」
 もしかして……という考えがAの脳裏を過ぎった。
「もしかしてGの死にお前が関係してるのか!」
「だったらどうする?」
「目障りだって理由……いや、Gを殺した根本の理由はなんだ!」
「知りたきゃ自分で思い出すんだね!」
 Sの足がAの股間を蹴り上げた。
 痛みを耐えながらAは思考を廻らす。
 いったいGは何を調べていたというのか。それによってGは殺されたのか。そしてGを殺したのは果たしてSなのか。
 再びSに股間を蹴り上げられ、Aは叫びそうになるのを堪えた。今はこの状況を打開しなくてはならない。いろいろと思考を巡らすのはその後だ。
「奴隷になると言ったらこの縄を解いてくれるのか?」
「奴隷に自由なんてあるわきゃないだろ!」
 それならば死んだ方が自由があるかもしれない。それでも今はまだ死ぬわけにはいかない。奴隷に甘んじていれば、いつか機会が巡って来るかも知れない。さすがにこのままずっと縛られたままということもあるまい。
 Aはわざと怯えたような表情をして、「奴隷になる……だから、殺さないでくれ」震えた声を出した。
「いいわ、そうだよ、身も心もアタシに捧げるんだよ」
 満足そうなSの淫らな唇。
 その時だった。
 部屋に飛び込んで来た謎の影。
 驚くSにJが飛び掛かった。
 揉み合いになりながら二人は床を転がり、先に立ち上がったSが近くにあった花瓶を手に取った。
「死ねーッ!」
 叫びながらSは花瓶でJの顔面を強打しようとした。
 空かさずJは両腕で顔面を防御して、割れた陶器の破片を浴びながら、肘でSの顔面を強打した。
 均衡を崩して横転したSにJは馬乗りになり、懐から注射器を取り出してそれをSの脇腹に射した。
「紳士として女性を殴る羽目になるとはね」
「ぶっ殺してやる!」
 Sは叫びながらJの躰を突き飛ばし、さらには狂気に駆られて倒れたJの臑に噛み付いた。だが、Sはマスクの下で眼を丸くした。
 Jの口元が笑みを浮かべる。
「噛みたければ好きなだけ噛むといいさ、義足でいいならね」
 やがてSは大人しくなり、瞬きが緩やかになると気を失った。
 服の埃を払いながら立ち上がるJ。その身の熟しは義足とは思えない。
「お互い酷い目に遭ったね」
 Jはベッドに上がり、Aの躰を跨いで乗った。そして、露わになっているAの肌を指でなぞる。
「そそる躰だ。ちょうどいい、キミが動けないうちに……なんてね、冗談さ」笑ったJはAの縄を解きはじめた。「ボクにそんな趣味はない」
 そんな趣味はない?
 今まで演技だったというのか?
 助けられたAは、腑に落ちないことがいくつもあった。
「どうして僕を助けた?」
「どう見ても助けなくては危うい状況だっただろう。しかし、これで今まで石橋を叩いて渡って来た僕の行動にも支障を来してしまった。時間稼ぎをするべきだろうね」
「貴方の目的はなんなんだ?」
「さて、なんだろうね」
 Jは黙々とSの躰を縛り上げた。手足を縛られたSは、目を覚ましても動くことはできないだろう。
 そして、JはSのマスクに手を掛けようとしていた。
「一つ、前々から確かめたいことがあった」
 そう言ってJは一気にマスクを剥ぎ取った。
 Aは驚愕した。
 そこにあったSの素顔はMと瓜二つ。双子か、それとも同一人物なのか。
 急にAを襲う激しい頭痛。
 目眩で世界が歪む。
 倒れそうになったAをJが抱きかかえた。
「大丈夫かい?」
 その声もまるで遠くから聞こえるようだ。
 このままでは気を失ってしまう。
 割れるように痛い頭で働かない思考をAは無理に廻らせた。
 この頭痛と目眩には何か理由がありそうな気がした。
 切っ掛けはおそらくSの素顔。
 悪夢の中で見た女――母とおぼしき者と同じ顔。
「まさか……そんな……どうして……」
 虚ろな瞳でAは呟いた。その全身からは汗が噴き出している。
 記憶は未だ戻らない。それは母なのか、それすらもわからない。ただ、思い出そうとすればするほど、頭痛と目眩が酷くなる。
 さらには嘔吐までしそうになりながら、Aは全てを堪えてSから距離を置くべく隣の部屋に移動した。
 Aがソファに腰掛けると、すぐにJが後を追って来た。
「どうしたのだい急に?」
「……わからない」
 どうにか意識を失わずに済み、徐々に体調も安定してきたが、まだ少し動悸がする。
「キミの看病をしてあげたところだけれど、事が急になってしまったものでね。次の行動に移らなくてはならない」言いながらJは手を差し出したが、それは手を貸すという意味ではなかった。「鍵を返してくれたまえ」
「地下に行くのか?」
「そういうことになるね。できれば避けて通りたい道だったけど、キミが調べてくれるのを待っても居られない」
「もしかして貴方は地下に降りたことがないのか? 僕に調べさせていたというか!」
「そういうことになるね。しかし、いつかは行くつもりではあったよ」
 やはりAはJの駒だったようだ。今まで良いように動かされてきた。
 Aは怒りを覚えつつも、重要なのはそこではない。
「貴方の目的はなんなんだ!」
 それこそが最大の疑問。
 Sの言葉によればGも何かを調べていたのだという。Aもいろいろと調べてきたが、その動機は記憶を取り戻すためである。GとJにはどのような理由があるというのか。
「鍵は渡さない」断固とする態度で言い切った。
 Jはほくそ笑む。「ならば一緒に来るといいよ。キミも興味があるだろう?」
 あの場所でAが見たものは無残な光景。だが、Mはほかに何かがあることを示唆していた。果たして行く価値のあるものなのだろうか。
 さらにJは畳み掛ける。「噂によると奴隷達を搬入する隠し通路もあり、そこは外に繋がっているらしいよ」
「本当に外へ出られるのか?」
「さて、それはわからないね。ボクが知っているのは情報でしかないから、真実とは限らない。確かめたいのなら、キミは自ら地下に行かなくてはならないよ」
 本当に外に出られるのなら価値のあることだ。外の世界へ行くことにより、記憶を取り戻すことができなくなる可能性もなくはないが、こんな屋敷に長居をしたいとは思わない。
「わかった、行こう」
「ならば今すぐだ。Mだけでなく、Sも姿を長く見せなければいつかは異変に気づく者も現れるだろうからね」
「やはりSとMは同一人物なのか?」
「おそらくね。ボクは二人は同時に存在したのを見たことがない」
 二人はSを残して部屋を後にした。


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